2010年12月1日水曜日

隠すということ

隠すということは教育ではない。

そもそも隠そうとしても隠しきれるわけがない。

何かを隠すことで人を教え導くことができると考えている人がいるとしたら,それは,地球が平らな円盤でできており,縁は滝になっていると真顔で説くことと何ら変わりはないのではないだろうか。

今日は何の話かというと,東京都の青少年健全育成条例改定について。

「NO」と言える男がまたしても「NO」と言ってしまったことに対し,さまざまな反対声明が出されていることは,各種報道で皆さんご存知の通り。マンガ家ペンクラブによる反対声明に加え,日本共産党の都議団も公に反対の見解を発表している。規制が検討されている具体的な表現内容についても,条文の検討,批判がなされている。

この辺りは,素人の出る幕ではないと思うし,既に数多く展開されている議論をなぞっても仕方がないので,自分の守備範囲で自分なりの見解を述べたい。

誤解を生まないために,まずは自分自身の立ち位置を明確にしよう。この条例改定案には絶対反対。ただ,すべてのものを無規制で垂れ流して良いと言っているわけではない。業界による自主規制や第三者によるレーティングまでは妨げない。自主規制やレーティングも基準があいまいだから反対という人もいるだろうし,自主規制という旗印の下に,無害であったはずの作品が闇に葬り去られてきた歴史も確かにある[1] が,僕はその存在そのものを否定するつもりはない。仮に自主規制やレーティングが「悪」であったとしても,それは「必要悪」だろうというのが僕の考え方だ。

例えば,我が国の映画の場合,業界団体ではなく,第三者委員会である映倫(映画倫理委員会)が審査を行ない,G, PG12, R15+, R18+ の 4 区分にレーティングしており,映倫の審査が終了しない限り,全興連(全国興行生活衛生同業組合連合会)加盟の劇場では上映できない[2]

さて,このような業界やサードパーティによる規制ならまだしも,行政や自治体が規制に乗り出すことにはやはり違和感がある。事実,日活の「太陽の季節」[3]が,当時の文部省が規制法案策定へ動き出す一因となり,それを阻止するために映倫が組織されたことを思うと,今,都議会で起こっていることが何とも皮肉に思えてならない。

現在,提案されている条例案は,特定の表現への規制にも言及しているようだが,そもそも憲法の規定の下に「表現」が「自由」である以上,コンテンツの性質によりいかなる規制をかけようとも,その裏をかくような「表現」がクリエイターにより創出されて,いわゆる「イタチごっこ」が繰り広げられることは想像に難くない(注)。その結果,規制の範囲はどんどん広がって,本来保証されるはずの自由が奪われていくことにつながりかねない。そういう意味で,表現されるものの性質により法的規制を加えることにはそもそも無理がある

彼らからしてみれば,法や条例で規制するのはもっとも簡単で,かつ,一見,有効に見えるのかもしれない。しかし,その裏で,これはもっと大きな問題を孕んでいる。

例えば,子供たちが,規制されているものを一切見ることも聞くこともできないとすれば,どのようなものがなぜ規制されるのか,その理由や背景について考え,議論し,教え説く機会が奪われかねない。このことは,単に教師や親が,これらの問題を議論の俎上に挙げる機会を削ぐだけでなく,ひいては,隠ぺいによる教育の硬直化をも引き起こしかねない。中世から現代に至るまで,同様の問題で人類は多くの悲劇を経験してきたではないか!

本来,見聞きすること自体が問題ではないはずで,程度の差こそあれ,見せた上で,それをどう捉えるか,問題だとすれば何が良くて何が悪いのか,そこで議論が生まれるべきである。そこに教育が入り込む余地がある,いや,入り込むべきなのだと僕は思う。ネットや携帯の問題にしても同様だが,何を見せて,そこで何を子供たちに教え,伝えていくのか,その選択権が教師や親による教育の現場にあってしかるべきだ。もちろん,それが容易ではないことは理解しているつもりだが,これは親や教師に与えられたある種の使命であって,我々が果たさなければならない責任なのだろうと思うのだ。

今回の条例改定は,そのような教育の機会を奪う危険性を大いに孕んでいる上に,教育の冒涜にも他ならないことを,ここで声を大にして訴えたい。

あるいは,彼(ら)は,「教師や親はそのような教育を行なう必要は一切ない,すべては行政が解決するのだ」とでもいう時代錯誤も甚だしい,のぼせ上った考えを抱いていたりするのだろうか?

今回の一連の騒動を見ていると,前世紀初頭に小説「われら」[4]でザミャーチンが痛快なまでに批判した,かつての大国の姿が都の姿に重なって見えるようだ。

もし,この条例が可決され,このような規制の下で育った子供が教育者や親になったとき,どんな社会がやってくるのか,想像すると少し怖い。仮に,そんな恐るべき未来を小説のような形で表現したとしたら,この条例によって,ザミャーチンのように規制や弾圧を受けることになるのだろうか?


《参考文献》
[1] 森達也(著), 放送禁止歌,  知恵の森文庫 (2003).
[2] キネマ旬報映画総合研究所(編),映画検定公式テキストブック, P.204, キネマ旬報社 (2006).
[3] 古川卓巳(監督), 石原慎太郎(原作), 太陽の季節, 日活 (1956).
[4] ザミャーチン(著), 川端香男里(訳), われら, 岩波文庫 (1992).


(注) この辺りは酒税を巡る第三のビール問題とも関連する。この意味で僕は日本のビール業界の努力を極めて高く評価する。

追記:
今,僕の住むオーストラリアにも,もちろん,レーティングはあるが,実はこちらは政府主導の機関が審査していて,区分も E, G, PG, M, MA15+, R18+, X18+ と日本よりも細かい上,テレビ番組や CM も対象で,印象としては基準も日本よりキツイ感がある。ただ,日本では恐らく見られないだろう映像をこの国で見ることは可能だし,E から M まではテレビでの放映も可能だったり,運用面では,若干のユルさがあるのもお国柄かもしれない。あくまでも,僕の個人的な憶測にすぎないけれども…

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